園の概要
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豊かな自然の中で「自分が大好き」なお子さまに
花と緑と野鳥の歌う田浦山に抱かれた、豊かな環境の中で、しなやかな『たくましさと優しさ』を育くみます。
- 幼稚園名
- 田浦幼稚園
- 設置者
- 宗教法人盛福寺
- 代表役員
- 山崎恵文
- 園長
- 杉山智子
- 開園
- 昭和28年7月4日
- 施設概要
- 【園舎】 オープンエリア設計・鉄筋コンクリート2階建て
延床面積686.79㎡・男女児別トイレ配置
【園庭】 面積536㎡、総合遊具 【グラウンド】792㎡ - 教育時間
- 9:00〜14:00
休園日…土曜日、日曜日 - 預かり保育
- 7:00〜9:00、14:00〜19:00
- 長期休園
- 夏休み、冬休み、春休み
- 長期休園中の保育時間
- 7:00〜15:00
- スクールバス
- 園バス2台ワゴン車1台
- 駐車場
- 25台
創設の精神は『愛情保育』
田浦幼稚園 創設者のご紹介
田浦幼稚園の創設の精神は、『愛情保育』でした。愛情保育とは、「見返りを求めないで子ども達に愛を降り注ぐ『布施の心』」を表した言葉です。
現在園長を務めております私、杉山智子は、田浦幼稚園創設者である山﨑恵満和尚の孫になります。私が伝え聞いております恵満和尚のエピソードから、みなさまに創設者の願いを感じて頂ければ幸いです。
戦後間もない頃は、物もお金も不足しがちの時代でした。僧侶はお盆の頃になると、檀家様廻りをしてお経を唱えます。しかし、新盆(にいぼん)にもかかわらずお招きをされない家があったので、心配した恵満和尚が訪ねていきました。
仏壇にお経を唱え終わると、バタバタと小銭を集める音がして、お布施を渡されました。和尚はそれをありがたく受け取ると、「私からのお布施です」と言って、頂いたばかりのお布施をそのまま仏壇にお供えして帰りました。
その家からは翌年もお招きはありませんでしたが、和尚は檀家様廻りの途中で立ち寄り、お経を唱えた後、「私からのお布施です」と言って、袂からリンゴを1個取り出し、仏壇にお供えして帰ったそうです。
この話を和尚の遺族が知ったのは、和尚が亡くなって何年か経ってからのことでした。
ある日お年寄りの方が、お寺に訪ねて来て下さいました。
「恵満和尚はいらっしゃいますか? あのときの小銭で給食費を支払い、お陰様で子ども達は元気に育ちました。和尚に一言、あのときのお礼がしたいのです。」
和尚の遺族は、そこで初めてそのお話を知りました
見返りを求めない与えっきりの「布施の心」は、今も「さわやかな愛」として、田浦幼稚園の子ども達に根付いています。
創設者 山﨑惠満 略歴
明治34年(1901)8月16日生 | 岐阜県羽島市足近町にて、尾畑家の長男として生れる。 |
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大正7年(1918) | 愛知県一宮市 妙興寺 妙興禅林(僧になるための修行所)卒業。 |
大正8年(1919)より 同13年(1924) |
名古屋市徳源専門道場師家 妙心寺管長関盧山に就いて禅学修行。 |
昭和2年(1927) | 臨済宗円覚寺派 田浦山盛福寺(せいふくじ)住職の山﨑家に養子に入る。 |
昭和5年(1930) | 田浦山盛福寺第14代住職就任。同年5月、鎌倉の名刹、鎌倉五山の一つである建長寺派浄妙寺の88代住職、松永智養の長女、達子と結婚。 |
昭和25年(1950)6月1日 | 幼児の健全な成長を強く願い、地域の子どもたちの為に、寺の本堂に盛福寺保育園を開園する。 |
昭和27年(1952)12月25日 | 田浦幼稚園に改園し認可を受け、初代園長に山﨑達子就任。 |
昭和29年(1954) | 臨済宗円覚寺派の宗務総長に就任し、2期5年を務む。 |
昭和46年(1971) | 山﨑惠満は、これまで内助の巧に支えられ、盛福寺住職として精力的に活動し檀家を手厚く加護する。甲斐あって檀家からも大変敬 愛され、盛福寺の発展に多大なる貢献を果たす。これまでに、連合町内会長、民生委員、市PTA会長、市佛教会長、市幼稚園会長等を歴任し、社会の発展と地域住民の生活向上にも尽力する。又、横須賀市会議員として5期20年に渡り奉職に携わり、昭和39年(1964)には横須賀市議会議長の要職も務める。 |
同年11月3日 | これらの功績が認められ、「勲5等瑞寶賞」叙勲の栄を賜る。 |
昭和47年(1972)5月18日 | 永眠、壽満70歳。特旨を以て、「従6位」を追賜せられる。 |